「せめて歌棄礒谷まで」江差追分と寿都町

江差追分という民謡、ご存じでしょうか?
『忍路高島 およびもないが せめて歌棄磯谷まで』の一節があります。歌棄・礒谷というのは私の住む寿都の地名であり、歌棄には江差追分の歌詞が刻まれた石碑があります。

実は江差追分は広義の意味ではラブソングなのです・・・
と括っては江差追分には失礼かもしれませんが、愛しき者との惜別と再会を願う切ない唄なのかも知れません。

この記事では江差追分の解説と、寿都の関係についてご紹介いたします。

江差追分の歴史

「江差追分」は北海道を代表する民謡のひとつで、北海道の無形文化財にも指定されています。
追分節の発祥は江戸時代中期以降と言われていますが、この寿都地方を含む北海道の南西部、各浜小屋などで独自に歌い継がれるようになりました。江差だけではなく、各地でそれぞれ歌われていた追分節には様々な流派が生まれました。

明治30年代後半から江差追分の振興・保存を目的に、江差追分大会が開催されるようになり、様々な流派に別れた追分節を統一しようという動きになりました。その後、平野派の師匠であった平野源三郎の働きかけにより、「江差追分正調研究会」が発足され、正調追分節の基礎が完成しました。

江差追分の構成

江差追分は「前唄」「本唄」「後唄」の三つで構成されています。

『カモメの鳴く音に ふと目を覚まし 有れが蝦夷地の山かいな』という有名な一節は本唄に含まれます。
実は沢山の本唄の伴う前唄、後唄が有ります。
『カモメの鳴く音に ふと目を覚まし』の次に歌われている本唄に『忍路高島 およびもないが せめて歌棄磯谷まで』の一節があります。

私はそのニシンの名所歌棄で、ニシン場の網元時代から先祖代々漁業を営んで居ます。

「忍路高島およびもないが せめて歌棄礒谷まで」の意味

小西正尚撮影の江差追分歌碑と遠くに見える風力発電
小西正尚撮影の江差追分歌碑と遠くに見える風力発電

この一節にはどのような意味が込められているのでしょうか?
諸説ありますが、ひとつは「愛する人との惜別の歌」ではないかと言われています。

「忍路高島」は現在の小樽方面、当時はニシン漁の大漁場であり、たくさんの男衆が出稼ぎに行きました。忍路高島へは積丹半島を通過しなければなりませんが、積丹半島の神威岬はアイヌの人たちにとって神聖な場所であり、江戸時代は女人禁制とされていました。居住はもちろん通行も許されません。1855年に女人禁制は解かれましたが、現在でも女人禁制の門が残っています。

忍路高島まではついていけないので、せめて歌棄磯谷までは見送りたい・・・

この一節は、そんな慕い合う男女の別れと再会を願う切ないラブソングなのです。

歌棄の江差追分歌碑

小西正尚撮影の江差追分歌碑「せめて歌棄礒谷まで」
小西正尚撮影の江差追分歌碑「せめて歌棄礒谷まで」

この歌碑は昭和28年に建立されたそうです。
私、小西正尚が生まれる少し前です。
私にとっては生まれた時から当たり前のようにある存在です。

最近では寿都町の歴史も見直され、歴史的な価値が再認識されています。
この歌碑もたくさんの観光客の方が寿都湾を背景に写真を撮っていかれます。

ありがたいことです。

小西正尚
Konishi Masanao

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