寿都の牡蠣小屋 60年前は漁師が賑わう漁師番屋だった

こんばんは。 寿都町の小西正尚です。
寿都町で人気スポットの「寿都湾元祖かき小屋」 新鮮な牡蠣を食べ放題で食べられることで有名になりました。

二軒のレンガ倉庫

こちらは「寿都湾かき小屋」オープン当日に撮影した写真です。 こんなに長蛇の列が続くお店は、寿都の歴史上初めてだったかもしれません。 とにかく、ものすごい賑わいでした。

寿都湾かき小屋 オープン当日の写真

現在、「寿都湾かき小屋」として営業している平屋の建物は、古いレンガ倉庫と繋がっているのですが、少し離れた所に赤茶色のレンガ倉庫がもうひとつあるのはご存知でしょうか? こちらの写真の右側に映っている写真です。 そして、レンガ倉庫の手前に「かき小屋」の看板が立っていて、 そのまた手前に、何やらレンガが積み重なって置いてあるのが見えますでしょうか?

実はこの二軒のレンガ倉庫の間には、大昔、大きな邸宅が建っていました。 その邸宅の跡地に、こちらも今はもう取り壊されてしまいましたが、赤茶のレンガ倉庫と併設して木造の家屋が建てられていました。 この積み重なったレンガは、この空き地部分にかつて家が建っていた名残なのです。 ※このレンガの正体は、ブログの最後でご紹介します!

漁師番屋だった倉庫と小西正尚の生家

昭和21年8月2日撮影 神輿を囲んだお祭りの若い衆たち
昭和28年8月4日撮影 当時は大勢の若い衆が漁師として働いていた

私のご先祖の話を書いた記事でご紹介しましたが、我が家はこの歌棄で代々漁師を営んでおります。

このレンガ倉庫は、私のご先祖が二代目の頃に番屋に使っていた建物なのです。 そして、赤茶のレンガ倉庫と併設してあった木造家屋、ここで私は少年時代を過ごしました。

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レンガ倉庫の思い出

小西正尚が10歳まで暮らしたレンガの家

レンガ倉庫は五人の兄弟の遊び場と寝室でした。 寝るときはそれぞれ屏風で仕切って寝ていたのですが、その屏風には、後年目に触れる様になった竹久夢路の美人画とそっくりな絵が沢山描かれてました。 今でも竹久夢路の絵を見ると当時を思い出します。

倉庫の中には、ニシン場時代の様々な珍しい物品が置かれていました。 住居を移した後に、この倉庫は盗難に遭ってしまったこともあり、残念ながらその屏風はもう手元にありません。

家族の生活の中心だった木造家屋は随分と昔に取り壊されて、現在はこの倉庫だけが残っています。

小西正尚が生まれ育ったレンガの家

積み重なったレンガの正体は?

さて、最初にご紹介した二軒のレンガ倉庫の間にある積み重なったレンガ。 私が生まれ育った木造の家屋があった頃、あのレンガは家から少し離れた所にありました。 子供の頃は、これに登って遊んだこともあります。

父から聞いた話では、その以前に建っていたマルホン本家はなかなかの大邸宅だったとのことで、当時はこのレンガ積みも建物の中にあったようです。

このレンガは、何かのための台座。 大切な物が設置してあったらしいのです。

答えはこちらです。

  

おわかりでしょうか? 実はこれは私のご先祖様の宝物、立派な「金庫」です。 屋号である「丸本」という文字が内扉に大きく書かれています。

あの積み重なったレンガは、この立派な金庫を載せるための台座だったんですね。

ニシン漁で栄えていた時代、寿都の漁家は大変裕福だったようです。 当時「漁業家番附(富豪番付)」なるものが発行されており、そこには地元の漁場を持った漁家たちが名前を連ねておりました。 この重厚な金庫にも、たくさんのお金が入っていたのかもしれません。

80年の時を経て帰って来た金庫

実はこの金庫、私が生まれる前、先々代のマルホン本家が取り壊されてからしばらくの間、行方不明になっていました。 本家が取り壊されたのは、もう知っている人が誰もいないので憶測ですが、きっと昭和10年頃だったのではないかと思います。

そして昭和30年に町村合併で旧歌棄村と寿都町が一緒になり、旧歌棄村役場が寿都町役場歌棄支所となりましたが、この金庫はその役所の建物にずっと置かれていたのです。 それを約15年ほど前に私が発見し、「これは我がご先祖のものではないか」と気付き、返還していただきました。

現在この金庫は使われておりませんが、当時の歴史を伝える家財として、今後「かき小屋」に展示していただけることになるかもしれません。

時代が変わり、かつて漁師たちで賑わっていた同じ場所が、今は遠方からの観光客の方々で賑わっている。 長い間人知れず眠っていた金庫も、歴史を伝える役割を持って皆さまの目に触れられれば、きっと喜ぶことでしょう。

小西正尚 Konishi Masanao